「立身出世主義」と「コンサマトリー」 -二宮金次郎だぁ?「現代の代弁者は私やろがい」!-
はじめに
抽象的な話をよくするのだが、元々にそういう力が強いわけではないので、よく文献を参照する。
先ほどは、見田宗介先生の「立身出世主義の構造」を読んでいた。
熟読する事は大切な事であるらしいのだが、その本の内容をなぞるようにしか思考できなくなるというのもいかがなものかと思うので、雑に読んだ後に、文章を書いてみようと思った次第である。
立身出世主義と明治政府
(私事だが、今いる大学図書館が閉まりそうである)
二宮金次郎像。
小学生時代、日本の歴史についてまとめた漫画本を読んでいる時、GHQの指示で二宮金次郎像が撤去されていた。
見田宗介によれば、二宮金次郎像に象徴される「金次郎主義」なるものが、日本の「立身出世主義」に大きく関わっているというのだ。
「立身出世主義」は明治維新による、日本の「近代化」において勃興したイデオロギーである。
それまで、封建制度の下、みずからの生まれ死んでいく階級は決定されていた。
しかし、「実力・業績」に応じた位置づけを謳う「立身出世主義」が、高等学校の設置による受験戦争など、人々の努力を掻き立てた。
しかし、結局のところ、優秀な上位層を掬い上げるにすぎず、多くの民衆は変わらぬ日常を過ごしていかざるを得ない。
誰でも官員に、など幻想だったのである。
しかし、このような「疎外」された民衆のエネルギーはどこに向ければいいのか。体制を崩壊させる暴動など起こされたら、元も子もない。
そこを抑え込むために導入されたのが「金次郎主義」である。
ひたむきな金次郎像の姿を理想視させることで、地道に努力をしていること自体を目的化させるのである。
「気力尽きようものなら根性が足らん、あの理想像を思い出せ。」
多くの民衆は、一生達成できないかもしれない理想像に向かって、努力至上の人生フルマラソン(出来レース?)に燃え尽きていくのである。
このイデオロギーが根幹にある国に僕らは生きている。
コンサマトリー化
社会学者パーソンズが初めて使用し、古市憲寿によって現代日本の若者論にも援用された「コンサマトリー化」という概念。
これ以上、何を求めることがあろうかと、自らの幸せのための最低限しか努力をしない。現代の若者である僕も、周囲において観察できる傾向である。
「高級ホテルよりも、昔からの友達んち」(KOHH「They Call Me Super Star」)
今を生きる若者たちにとって、仕事人生、完全燃焼な老人たちの発汗ほど、汚らわしいものはないのかもしれない。
「もやし」という食べ物が、現代の青年像を揶揄する時に使われるが、そんな細い体の内に秘めたどす黒い闇は、昭和の遺物に対する軽蔑のまなざしを形成する。
「お前らのように脂ばかり求めんのだ。我々は、食事も生き方も最低限だ」
現代らしい、抵抗の在り方と言えるかもしれない。
うっせぇわ
若者の人気を確実につかんだAdoの「うっせえわ」
ここでは、「ぶん殴る」などといった肉体的抵抗の表現は認められない。
「言葉の銃口を、その頭に突き付けて」
情報化社会の中で巧みに生きてきた若者は、細い体で、狡猾なまなざしを老人たちに向ける。
そして、老人たちからすれば暗号かにも思われる「言葉」を武器にする。
しかし、これは裏返しにもとれる。
すなわち、若者たちが求めているのは、根性で突き動かすような言動ではなく、対話であるという事だ。
言葉をぶつけ、それに耳を傾け、応答せよ。
その声は届かないことが多いのだろう。
SNSには、届きもしない若者のホンネが、雨のように降り注いでいる。